社会は何を名誉とするべきか
―アイスクリームから始まった税と共同体への思索―
第一章 アイスクリームを買いながら考えたこと
ある日、コンビニでアイスクリームを買った。
それは特別な出来事ではない。
仕事帰りや休日に誰でもするような、ありふれた買い物である。
しかし、その時ふと以前見たニュースを思い出した。
アイスメーカーによる価格カルテルの報道だった。
価格カルテルは市場競争を阻害する行為として問題になる。
本来であれば企業同士が競争し、その結果として価格が決まる。
ところが、企業同士が示し合わせて価格を決めてしまえば、消費者は本来より高い価格で商品を買わなければならなくなる。
だから問題なのだと説明される。
私はその説明に特に異論はない。
むしろ当然だと思う。
しかし、その時に一つの疑問が浮かんだ。
私はアイスクリームの価格を見ている。
だが、その価格は本当に商品の価値だけを表しているのだろうか。
例えば私が百円のアイスクリームを買うとする。
実際に支払う金額には消費税が含まれている。
私はアイスクリームを買いたいのであって、税金を払いたいわけではない。
それにもかかわらず、支払う金額には税が含まれている。
もちろん税金と価格カルテルは全く別の話である。
一方は法律によって定められた制度であり、もう一方は競争を阻害する行為である。
しかし、消費者の立場から見れば、どちらも支払う価格に影響を与えている。
私はそこで考え込んでしまった。
価格とは何なのだろう。
私は商品の価値にお金を払っているのだろうか。
それとも制度を含めた社会全体の仕組みに対してお金を払っているのだろうか。
考えてみると、私は今まで価格そのものについて深く考えたことがなかった。
安いか高いかは考える。
しかし、その価格がどのように成り立っているのかは考えない。
それは空気のように当たり前に存在していた。
だが、価格カルテルのニュースを思い出したことで、その当たり前が少し揺らいだ。
市場価格とは何なのか、適正価格とは何なのか。
そして、税はその中でどのような役割を持っているのか。
私はアイスクリームを買っただけだった。
しかし、その小さな買い物から、一つの疑問が生まれた。
税率の話ではない。
増税か減税かという話でもない。
もっと単純な疑問である。
税とは何なのだろう。
私はその問いについて考えてみたいと思った。
第二章 価格とは何だろう
第一章では、アイスクリームを買ったことをきっかけに、税とは何だろうという問いが生まれた。
しかし、その問いに答えようとしたとき、私はもう一つ手前の問いがあることに気が付いた。
それは「価格とは何だろう」という問いである。
私たちは普段、価格を当たり前のものとして受け入れている。
高い、安いという判断はする。
しかし、その価格がどのように決まり、何を表しているのかまで考えることは少ない。
例えば、一つの商品には様々な費用が含まれている。
原材料費、人件費、運送費、広告費。
店舗を維持するための費用。
企業の利益。
そして税金である。
私がアイスクリームを買うとき、その金額は単に「アイスクリームの価値」を表しているわけではない。
その商品が私の手元へ届くまでに必要となった様々な要素が、一つの価格として表れている。
そう考えると、価格とは単なる数字ではない。
社会の仕組みそのものが映し出された結果なのかもしれない。
市場経済では、価格は需要と供給によって決まると言われる。
欲しい人が多ければ価格は上がる。
売れなければ価格は下がる。
競争があるからこそ、より良い商品をより安く提供しようと企業は努力する。
だから価格には意味がある。
価格とは、多くの人の判断が積み重なった結果だからである。
一方で、価格カルテルのように、人為的に価格を操作すれば、本来の市場価格とは異なるものになる。
だから問題になる。
私はその考え方に納得している。
しかし、ここで再び疑問が生まれる。
消費税はどうなのだろう。
もちろん、消費税は価格カルテルとは全く違う。
法律によって定められた制度であり、公共サービスを支える財源でもある。
それでも、消費者が支払う金額を変えていることに違いはない。
私はそこで、「価格」と「税」を切り離して考えることができなくなった。
もし消費税がなければ、この商品はいくらで売られていたのだろう。
私は本来の市場価格で商品を買っているのだろうか。
それとも、制度を含めた価格で商品を買っているのだろうか。
もちろん、ここで消費税が必要か不要かを論じたいわけではない。
私が考えたいのは、その前提となる問いである。
価格とは何なのか。
そして、税は価格の中でどのような役割を果たしているのか。
税とは何かを考えるためには、まず価格とは何かを考えなければならない。
私はそう思うようになった。
第三章 税とは何だろう
価格について考えているうちに、私の疑問は少しずつ変わっていった。
最初は消費税について考えていたはずだった。
しかし、価格を考えれば考えるほど、消費税だけを切り離して考えることができなくなった。
消費税を考えるなら、税そのものについて考えなければならない。
私はそう思うようになった。
税には様々な種類がある。
所得税、法人税、固定資産税、相続税、酒税、たばこ税。
同じ「税」と呼ばれていても、その対象も目的も異なる。
では、それらに共通するものは何なのだろう。
税とは一体何なのだろう。
税を考えるとき、多くの場合は税率や負担について議論される。
税率は高い方がよいのか、低い方がよいのか。
どの税を増やし、どの税を減らすべきなのか。
もちろん、それらは重要な議論である。
しかし、私はその前に考えたいことがあった。
税とは、そもそも何のために存在するのだろう。
私はこれまで、税を支払うことを特別に意識したことがなかった。
会社員として働けば所得税が引かれる。
買い物をすれば消費税を支払う。
車を持てば自動車に関する税金がかかる。
税とは、生活の中に当たり前に存在するものだった。
だからこそ、その存在理由を考えることもなかった。
しかし、改めて考えてみると不思議である。
税は法律によって徴収される。
支払わなければならない義務がある。
それほど重要な制度でありながら、多くの人は「税とは何か」を考える機会が少ないのではないだろうか。
税とは国の財源である。
そう説明されれば、その通りだと思う。
道路を整備し、警察や消防を維持し、教育や福祉を支える。
そのために税が必要であることは理解できる。
しかし、その説明だけでは、私の疑問は解決しなかった。
もし税がお金を集めるためだけの制度であるなら、できるだけ効率よく集められればよいことになる。
けれども実際には、税には様々な種類があり、それぞれ異なる考え方で課税されている。
所得に課税されるもの。
利益に課税されるもの。
財産に課税されるもの。
消費に課税されるもの。
つまり、税は単にお金を集める仕組みではなく、「何に負担を求めるか」という社会の考え方を表している制度なのではないだろうか。
そう考え始めると、一つの疑問が生まれた。
社会は、なぜ消費に税を課すのだろう。
所得ではなく、利益でもなく、消費という行為そのものに負担を求める理由は何なのだろう。
もちろん、その理由について様々な説明があることは知っている。
私はその説明が正しいかどうかを議論したいわけではない。
私が考えたいのは、その制度が人にどのような影響を与えるのかということである。
人は働いて所得を得る。
その所得で商品を買う。
その商品を買うたびに税を支払う。
この仕組みは、人にどのような意識を育てるのだろうか。
私は消費税を支払うたびに、「社会に参加している」と感じたことはほとんどない。
むしろ、「商品を買った結果として支払っている」という感覚の方が強い。
税を納めようとして支払っているのではない。
商品を買いたいから支払っているのである。
ここで私は、税そのものではなく、「納税」という行為について考え始めた。
税とは何なのだろう。
そして、納税とは何を意味する行為なのだろう。
私の関心は、少しずつその問いへ移っていった。
第四章 納税とは何を意味するのか
税について考えているうちに、私の関心は「納税」という行為そのものへ移っていった。
税とは制度である。
しかし、納税は人が行う行為である。
同じ税について考えているようで、その二つは少し意味が違うように思えた。
私はこれまで、納税を積極的に意識したことがほとんどなかった。
会社員として働けば所得税は差し引かれる。
買い物をすれば消費税を支払う。
固定資産を持てば固定資産税が課される。
どれも法律によって定められている。
だから納税とは、「しなければならないこと」として受け止められることが多い。
実際、多くの人にとって税とは負担である。
税金が安くなれば嬉しい。
税金が高くなれば困る。
それは自然な感情だと思う。
しかし、私は別の疑問を持つようになった。
税は社会に必要な制度であると言われる。
誰もがその必要性を認めながら、一方では「できるだけ払いたくないもの」とも考えられている。
この二つは、どこか矛盾しているように思えた。
もちろん、無駄遣いをする必要はない。
法律の範囲内で節税を考えることも否定されるものではない。
しかし、節税という言葉は日常的に使われても、「喜んで納税する」という言葉はほとんど耳にしない。
税が社会を支えるために必要なのであれば、なぜ納税そのものは前向きな行為として語られないのだろうか。
私はそこに違和感を覚えた。
その違和感は、税額の大小とは関係がない。
一円でも税は税である。
一億円でも税は税である。
金額ではなく、「納税とは何を意味するのか」が私には分からなくなったのである。
納税とは、社会に参加した証なのだろうか。
社会から受けた恩恵に対する対価なのだろうか。
あるいは、共同体を維持するために皆で負担を分かち合うという意思なのだろうか。
私はまだ答えを持っていない。
しかし、一つだけ思うことがある。
もし納税が単なる義務としてしか受け止められないのであれば、人はできるだけ少なく払おうと考えるのは自然である。
反対に、納税が社会に貢献した結果として受け止められるのであれば、その意味は少し変わるのではないだろうか。
ここで言いたいのは、高額納税者が偉いということではない。
税額だけで人を評価する社会は、私の考える社会とは違う。
私が考えているのは、納税という行為が、その人の社会との関わり方を考えるきっかけにならないだろうか、ということである。
人は何のために働くのだろう。
生活のためだろうか。
家族のためだろうか。
会社のためだろうか。
それとも社会のためだろうか。
その答えは人それぞれである。
しかし、働いた結果として納税があるのなら、納税もまた社会との関わりを考える一つの機会になるはずである。
私は税について考えていた。
けれども、いつの間にか考えていたのは、人と社会との関わり方そのものだった。
税は、その入り口に過ぎなかったのかもしれない。
そして私は、さらに一つの疑問を持つようになった。
人は、何によって社会へ貢献しようと思うのだろうか。
第五章 人は何によって社会へ貢献しようと思うのだろうか
納税について考えているうちに、私は税そのものよりも、人と社会との関係について考えるようになった。
人はなぜ働くのだろう。
生活のため。
家族のため。
自分の夢を実現するため。
会社を成長させるため。
どれも間違いではない。
むしろ、そのような目的があるからこそ、人は努力を続けることができる。
しかし、その働きは最終的に誰のためになっているのだろう。
私は会社員として働いている。
会社の利益を考え、顧客のために仕事をし、会社が発展することで社会に貢献していると言われれば、その通りだと思う。
現代では、この考え方が一般的である。
企業は利益を上げる。
利益を上げることで雇用を生み、税を納め、社会へ貢献する。
企業による社会貢献活動や環境への配慮が評価されるのも、その延長線上にある。
しかし、私は少し違う見方もできるのではないかと思った。
会社は社会を構成する一つの組織である。
一方で、国家を構成しているのは企業ではない。
一人ひとりの国民である。
会社への貢献と、一人の国民として社会へ貢献することは、同じようでいて少し違うのではないだろうか。
会社を通して社会へ貢献することはできる。
しかし、それだけが社会との関わり方なのだろうか。
私はそこに疑問を持った。
昔の人々は、今よりも地域との結び付きが強かったと言われる。
商人は町のために尽くし、職人は技術を伝え、地主は地域を支え、名士と呼ばれる人々は学校や橋を造り、祭りや文化を守った。
もちろん、それが理想的な社会だったと言いたいわけではない。
身分制度もあれば、不公平もあった。
それでも、一人の人間が社会の中で果たす役割は、今より見えやすかったように思う。
一方、現代では会社という組織が大きくなった。
個人は会社に所属し、その成果を通して社会へ貢献する。
その仕組みは合理的であり、多くの豊かさを生み出した。
しかし、その反面、一人の国民として社会に何を返しているのかを考える機会は少なくなったようにも感じる。
会社へ尽くすことと、社会へ尽くすことは、本来一致しているはずである。
けれども、それが一致していることを実感できる人はどれほどいるのだろう。
私はここで、働く目的について改めて考えた。
もし働くことが収入を得ることだけを意味するのであれば、できるだけ多くのお金を得ることが目的になる。
節税を考え、資産を増やし、より豊かな生活を目指すことは自然な流れである。
それを否定するつもりはない。
しかし、それだけが働く意味なのだろうか。
私はそうは思わない。
働くことによって誰かの役に立つ。
社会が少し豊かになる。
その結果として利益が生まれ、その一部を社会へ返す。
私は、その流れにこそ意味があるのではないかと思っている。
もちろん、これは理想論かもしれない。
人は誰でも自分や家族の生活を優先する。
だからこそ、社会に貢献しようという気持ちは、義務だけでは長く続かない。
では、人は何によって社会へ貢献しようと思うのだろう。
お金だろうか、法律だろうか、評価だろうか。
私は、そのどれだけでもないような気がしている。
人は、自分の行いが誰かの役に立ったと感じたとき、初めてその行為に誇りを持つのではないだろうか。
そして、その誇りは、自分一人で決めるものではない。
社会の中で育まれ、人から認められることで、少しずつ形になっていくものなのかもしれない。
そう考えたとき、私は新しい問いにたどり着いた。
社会は、人々のどのような行いを誇りあるものとして評価するべきなのだろうか。
私は、その問いについて考えてみたいと思う。
第六章 社会は何を名誉とするべきか
私はここまで、税について考えてきた。
しかし、振り返ってみると、考えていたのは税そのものではなかった。
税という制度を通して、人は何によって社会へ貢献しようと思うのかを考えていたのである。
社会には様々な評価がある。
学問で評価される人がいる。
芸術で評価される人がいる。
スポーツで評価される人がいる。
企業を経営し、多くの人を雇用することで評価される人もいる。
どれも社会に必要な存在であり、一つの価値だけで社会は成り立たない。
私も、そのことを否定するつもりはない。
一方で、社会にはもう一つの評価があってもよいのではないかと思う。
それは、「どれだけ社会へ返したか」という評価である。
ここで言う「返した」とは、お金だけを意味しているわけではない。
時間を使うこともある。
知識を伝えることもある。
文化を守ることもある。
人を育てることもある。
そして、その一つの形として納税がある。
私は、高額納税者が偉いと言いたいわけではない。
税額だけで人を評価する社会は、決して健全ではないと思う。
もし税額だけが評価の基準になるなら、人は数字だけを追い求めるようになるだろう。
それでは、お金そのものが目的になってしまう。
私が考えているのは、その逆である。
社会へ貢献した結果として、多くの納税をした人がいる。
その人は、多くの利益を得たから尊敬されるのではない。
社会へ多く返したという事実に、人々が価値を見いだすのである。
そのような社会であれば、納税という行為の意味も少し変わるのではないだろうか。
現在、「高額納税者」という言葉を耳にする機会は少ない。
かつては高額納税者が公表される制度もあったが、今ではそのような制度はなくなった。
私は、その制度を復活させるべきだと言いたいわけではない。
ただ、社会が「何を評価するのか」という価値観は、時代とともに変わってきたのではないかと思う。
今は、どれだけ資産を持っているか。
どれだけ高価な物を所有しているか。
どれだけ成功しているように見えるか。
そうしたことが注目されやすい時代である。
もちろん、それも一つの価値観である。
しかし、その成功が社会へ返されることなく、自分だけの満足で終わるなら、私はどこか物足りなさを感じる。
働くことの目的は、豊かになることだけなのだろうか。
利益を得ることだけなのだろうか。
私は、その先があるように思う。
社会の中で活動し、社会から多くを受け取り、その一部を社会へ返していく。
その循環があって初めて、一人の人間として社会に参加していると言えるのではないだろうか。
だから私は、納税を「負担」としてだけ見ることに違和感を覚える。
もちろん、生活が苦しい人もいる。
税金を払いたくても払えない人もいる。
だからこそ、人の価値を税額だけで測ることはできない。
しかし一方で、社会へ多く返そうとする姿勢そのものは、もっと評価されてもよいのではないかと思う。
もし社会が、「社会へ返すこと」を名誉ある行為として考えるようになれば、人は利益を得ることだけを目標に働くのではなく、その利益をどのように社会へ返していくかまで考えるようになるのではないだろうか。
ここで私が考えている「名誉」とは、お金で買える名声ではない。
名誉とは、人々が自然に尊敬したいと思う人格や行いのことである。
勲章や肩書きを持っているから名誉なのではない。
多くの人が「自分もあのように生きたい」と思える生き方に対して、人々が自然に抱く敬意である。
その敬意は、お金で命令して得られるものではない。
法律で与えられるものでもない。
人々が長い時間をかけて育てる価値観の中から生まれるものだと思う。
だが、そのような社会が実現するとは言わない。
それが正しいとも断言しない。
ただ、そのような価値観を持つ社会は、今よりも少しだけ、人と社会とのつながりを感じられる社会になるのではないか。
そんなことを考えている。
第七章 今日までの思索
この文章は、一つの答えを書くために始めたものではない。
コンビニでアイスクリームを買ったことをきっかけに、「税とは何だろう」という疑問が生まれ、その問いを追いかけてきた記録である。
考え始めた頃の私は、消費税について疑問を持っていた。
イートインとテイクアウトで税率が異なることに違和感を覚えた。
価格カルテルの報道を見て、市場価格とは何かを考えた。
そこから価格とは何かを考え、税とは何かを考え、納税とは何かを考えるようになった。
そして、最後に残った問いは、税そのものではなかった。
人は、何によって社会へ貢献しようと思うのだろうか、という問いだった。
私は、この問いにまだ答えを持っていない。
しかし、一つだけ思うことがある。
社会は法律だけでは成り立たない。
経済だけでも成り立たない。
制度を支えているのは、その社会に生きる人々の価値観である。
何を立派だと思うのか。
何を誇りだと思うのか。
何を尊敬したいと思うのか。
そうした価値観が積み重なって、社会の空気をつくっていく。
だから私は、税について考えていたつもりが、いつの間にか社会の価値観について考えていた。
もし社会が、お金を持つことだけを成功と考えるなら、人はお金を持つことを目指す。
もし社会が、有名になることだけを成功と考えるなら、人は有名になることを目指す。
では、社会が「社会へ返すこと」を尊い行いだと考えるようになったらどうだろう。
人は、その価値観に影響を受けるのではないだろうか。
もちろん、それだけで社会が変わるとは思わない。
制度も必要である、経済も必要である、教育も必要である。
しかし、それらの制度を支えているのも、結局は人の考え方である。
だから私は、制度そのものよりも、その制度が人にどのような人格を育てるのかに興味がある。
税制の是非を論じたいわけではない。
消費税を廃止すべきだと言いたいわけでもない。
高額納税者を特別扱いすべきだと言いたいわけでもない。
私が考えたいのは、もっと根本的なことである。
社会は、人のどのような行いを尊敬するべきなのだろうか。
そして、その価値観は、人々にどのような生き方を促すのだろうか。
私は、名誉とは勲章や肩書きではないと思っている。
名誉とは、多くの人が「自分もそのように生きたい」と思うような行いに対して、自然に抱く敬意である。
それは、お金で買うことはできない。
法律で与えることもできない。
人々が長い時間をかけて育ててきた価値観の中から生まれるものだと思う。
だからこそ、私は社会が何を名誉とするのかに興味がある。
その答えは、一つではないだろう。
時代によって変わるかもしれない。
国によっても違うだろう。
私自身も、この先考え方が変わるかもしれない。
それでも、この問いは考え続ける価値があると思っている。
この文章は、その結論ではない。
今日まで考えたことを整理した、一つの思索の記録である。
そして、この文章を書き終えた今、私の中には新しい問いが残っている。
もし社会が人の価値観を育てるのであれば、その価値観は誰によって育まれ、どのように次の世代へ受け継がれていくのだろうか。
その問いについては、また改めて考えてみたいと思う。




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