ネムールのつぶやき

日記として記録を残していこうと思います。

社会は何を名誉とするべきか ―アイスクリームから始まった税と共同体への思索―

社会は何を名誉とするべきか
―アイスクリームから始まった税と共同体への思索―

 

 

第一章 アイスクリームを買いながら考えたこと

ある日、コンビニでアイスクリームを買った。
それは特別な出来事ではない。
仕事帰りや休日に誰でもするような、ありふれた買い物である。
しかし、その時ふと以前見たニュースを思い出した。
アイスメーカーによる価格カルテルの報道だった。
価格カルテルは市場競争を阻害する行為として問題になる。
本来であれば企業同士が競争し、その結果として価格が決まる。
ところが、企業同士が示し合わせて価格を決めてしまえば、消費者は本来より高い価格で商品を買わなければならなくなる。
だから問題なのだと説明される。
私はその説明に特に異論はない。
むしろ当然だと思う。
しかし、その時に一つの疑問が浮かんだ。
私はアイスクリームの価格を見ている。
だが、その価格は本当に商品の価値だけを表しているのだろうか。
例えば私が百円のアイスクリームを買うとする。
実際に支払う金額には消費税が含まれている。
私はアイスクリームを買いたいのであって、税金を払いたいわけではない。
それにもかかわらず、支払う金額には税が含まれている。
もちろん税金と価格カルテルは全く別の話である。
一方は法律によって定められた制度であり、もう一方は競争を阻害する行為である。
しかし、消費者の立場から見れば、どちらも支払う価格に影響を与えている。
私はそこで考え込んでしまった。
価格とは何なのだろう。
私は商品の価値にお金を払っているのだろうか。
それとも制度を含めた社会全体の仕組みに対してお金を払っているのだろうか。
考えてみると、私は今まで価格そのものについて深く考えたことがなかった。
安いか高いかは考える。
しかし、その価格がどのように成り立っているのかは考えない。
それは空気のように当たり前に存在していた。
だが、価格カルテルのニュースを思い出したことで、その当たり前が少し揺らいだ。
市場価格とは何なのか、適正価格とは何なのか。
そして、税はその中でどのような役割を持っているのか。
私はアイスクリームを買っただけだった。
しかし、その小さな買い物から、一つの疑問が生まれた。
税率の話ではない。
増税か減税かという話でもない。
もっと単純な疑問である。
税とは何なのだろう。
私はその問いについて考えてみたいと思った。

第二章 価格とは何だろう

第一章では、アイスクリームを買ったことをきっかけに、税とは何だろうという問いが生まれた。
しかし、その問いに答えようとしたとき、私はもう一つ手前の問いがあることに気が付いた。
それは「価格とは何だろう」という問いである。
私たちは普段、価格を当たり前のものとして受け入れている。
高い、安いという判断はする。
しかし、その価格がどのように決まり、何を表しているのかまで考えることは少ない。
例えば、一つの商品には様々な費用が含まれている。
原材料費、人件費、運送費、広告費。
店舗を維持するための費用。
企業の利益。
そして税金である。
私がアイスクリームを買うとき、その金額は単に「アイスクリームの価値」を表しているわけではない。
その商品が私の手元へ届くまでに必要となった様々な要素が、一つの価格として表れている。
そう考えると、価格とは単なる数字ではない。
社会の仕組みそのものが映し出された結果なのかもしれない。
市場経済では、価格は需要と供給によって決まると言われる。
欲しい人が多ければ価格は上がる。
売れなければ価格は下がる。
競争があるからこそ、より良い商品をより安く提供しようと企業は努力する。
だから価格には意味がある。
価格とは、多くの人の判断が積み重なった結果だからである。
一方で、価格カルテルのように、人為的に価格を操作すれば、本来の市場価格とは異なるものになる。
だから問題になる。
私はその考え方に納得している。
しかし、ここで再び疑問が生まれる。
消費税はどうなのだろう。
もちろん、消費税は価格カルテルとは全く違う。
法律によって定められた制度であり、公共サービスを支える財源でもある。
それでも、消費者が支払う金額を変えていることに違いはない。
私はそこで、「価格」と「税」を切り離して考えることができなくなった。
もし消費税がなければ、この商品はいくらで売られていたのだろう。
私は本来の市場価格で商品を買っているのだろうか。
それとも、制度を含めた価格で商品を買っているのだろうか。
もちろん、ここで消費税が必要か不要かを論じたいわけではない。
私が考えたいのは、その前提となる問いである。
価格とは何なのか。
そして、税は価格の中でどのような役割を果たしているのか。
税とは何かを考えるためには、まず価格とは何かを考えなければならない。
私はそう思うようになった。

第三章 税とは何だろう

価格について考えているうちに、私の疑問は少しずつ変わっていった。
最初は消費税について考えていたはずだった。
しかし、価格を考えれば考えるほど、消費税だけを切り離して考えることができなくなった。
消費税を考えるなら、税そのものについて考えなければならない。
私はそう思うようになった。
税には様々な種類がある。
所得税、法人税、固定資産税、相続税、酒税、たばこ税。
同じ「税」と呼ばれていても、その対象も目的も異なる。
では、それらに共通するものは何なのだろう。
税とは一体何なのだろう。
税を考えるとき、多くの場合は税率や負担について議論される。
税率は高い方がよいのか、低い方がよいのか。
どの税を増やし、どの税を減らすべきなのか。
もちろん、それらは重要な議論である。
しかし、私はその前に考えたいことがあった。
税とは、そもそも何のために存在するのだろう。
私はこれまで、税を支払うことを特別に意識したことがなかった。
会社員として働けば所得税が引かれる。
買い物をすれば消費税を支払う。
車を持てば自動車に関する税金がかかる。
税とは、生活の中に当たり前に存在するものだった。
だからこそ、その存在理由を考えることもなかった。
しかし、改めて考えてみると不思議である。
税は法律によって徴収される。
支払わなければならない義務がある。
それほど重要な制度でありながら、多くの人は「税とは何か」を考える機会が少ないのではないだろうか。
税とは国の財源である。
そう説明されれば、その通りだと思う。
道路を整備し、警察や消防を維持し、教育や福祉を支える。
そのために税が必要であることは理解できる。
しかし、その説明だけでは、私の疑問は解決しなかった。
もし税がお金を集めるためだけの制度であるなら、できるだけ効率よく集められればよいことになる。
けれども実際には、税には様々な種類があり、それぞれ異なる考え方で課税されている。
所得に課税されるもの。
利益に課税されるもの。
財産に課税されるもの。
消費に課税されるもの。
つまり、税は単にお金を集める仕組みではなく、「何に負担を求めるか」という社会の考え方を表している制度なのではないだろうか。
そう考え始めると、一つの疑問が生まれた。
社会は、なぜ消費に税を課すのだろう。
所得ではなく、利益でもなく、消費という行為そのものに負担を求める理由は何なのだろう。
もちろん、その理由について様々な説明があることは知っている。
私はその説明が正しいかどうかを議論したいわけではない。
私が考えたいのは、その制度が人にどのような影響を与えるのかということである。
人は働いて所得を得る。
その所得で商品を買う。
その商品を買うたびに税を支払う。
この仕組みは、人にどのような意識を育てるのだろうか。
私は消費税を支払うたびに、「社会に参加している」と感じたことはほとんどない。
むしろ、「商品を買った結果として支払っている」という感覚の方が強い。
税を納めようとして支払っているのではない。
商品を買いたいから支払っているのである。
ここで私は、税そのものではなく、「納税」という行為について考え始めた。
税とは何なのだろう。
そして、納税とは何を意味する行為なのだろう。
私の関心は、少しずつその問いへ移っていった。

第四章 納税とは何を意味するのか

税について考えているうちに、私の関心は「納税」という行為そのものへ移っていった。
税とは制度である。

しかし、納税は人が行う行為である。

同じ税について考えているようで、その二つは少し意味が違うように思えた。
私はこれまで、納税を積極的に意識したことがほとんどなかった。
会社員として働けば所得税は差し引かれる。
買い物をすれば消費税を支払う。
固定資産を持てば固定資産税が課される。
どれも法律によって定められている。
だから納税とは、「しなければならないこと」として受け止められることが多い。
実際、多くの人にとって税とは負担である。
税金が安くなれば嬉しい。
税金が高くなれば困る。
それは自然な感情だと思う。
しかし、私は別の疑問を持つようになった。
税は社会に必要な制度であると言われる。
誰もがその必要性を認めながら、一方では「できるだけ払いたくないもの」とも考えられている。
この二つは、どこか矛盾しているように思えた。
もちろん、無駄遣いをする必要はない。
法律の範囲内で節税を考えることも否定されるものではない。
しかし、節税という言葉は日常的に使われても、「喜んで納税する」という言葉はほとんど耳にしない。
税が社会を支えるために必要なのであれば、なぜ納税そのものは前向きな行為として語られないのだろうか。
私はそこに違和感を覚えた。
その違和感は、税額の大小とは関係がない。
一円でも税は税である。
一億円でも税は税である。
金額ではなく、「納税とは何を意味するのか」が私には分からなくなったのである。
納税とは、社会に参加した証なのだろうか。
社会から受けた恩恵に対する対価なのだろうか。
あるいは、共同体を維持するために皆で負担を分かち合うという意思なのだろうか。
私はまだ答えを持っていない。
しかし、一つだけ思うことがある。
もし納税が単なる義務としてしか受け止められないのであれば、人はできるだけ少なく払おうと考えるのは自然である。
反対に、納税が社会に貢献した結果として受け止められるのであれば、その意味は少し変わるのではないだろうか。
ここで言いたいのは、高額納税者が偉いということではない。
税額だけで人を評価する社会は、私の考える社会とは違う。
私が考えているのは、納税という行為が、その人の社会との関わり方を考えるきっかけにならないだろうか、ということである。
人は何のために働くのだろう。
生活のためだろうか。
家族のためだろうか。
会社のためだろうか。
それとも社会のためだろうか。
その答えは人それぞれである。
しかし、働いた結果として納税があるのなら、納税もまた社会との関わりを考える一つの機会になるはずである。
私は税について考えていた。
けれども、いつの間にか考えていたのは、人と社会との関わり方そのものだった。
税は、その入り口に過ぎなかったのかもしれない。
そして私は、さらに一つの疑問を持つようになった。
人は、何によって社会へ貢献しようと思うのだろうか。

第五章 人は何によって社会へ貢献しようと思うのだろうか

納税について考えているうちに、私は税そのものよりも、人と社会との関係について考えるようになった。
人はなぜ働くのだろう。
生活のため。
家族のため。
自分の夢を実現するため。
会社を成長させるため。
どれも間違いではない。
むしろ、そのような目的があるからこそ、人は努力を続けることができる。
しかし、その働きは最終的に誰のためになっているのだろう。
私は会社員として働いている。
会社の利益を考え、顧客のために仕事をし、会社が発展することで社会に貢献していると言われれば、その通りだと思う。
現代では、この考え方が一般的である。
企業は利益を上げる。
利益を上げることで雇用を生み、税を納め、社会へ貢献する。
企業による社会貢献活動や環境への配慮が評価されるのも、その延長線上にある。
しかし、私は少し違う見方もできるのではないかと思った。
会社は社会を構成する一つの組織である。
一方で、国家を構成しているのは企業ではない。
一人ひとりの国民である。
会社への貢献と、一人の国民として社会へ貢献することは、同じようでいて少し違うのではないだろうか。
会社を通して社会へ貢献することはできる。
しかし、それだけが社会との関わり方なのだろうか。
私はそこに疑問を持った。
昔の人々は、今よりも地域との結び付きが強かったと言われる。
商人は町のために尽くし、職人は技術を伝え、地主は地域を支え、名士と呼ばれる人々は学校や橋を造り、祭りや文化を守った。
もちろん、それが理想的な社会だったと言いたいわけではない。
身分制度もあれば、不公平もあった。
それでも、一人の人間が社会の中で果たす役割は、今より見えやすかったように思う。
一方、現代では会社という組織が大きくなった。
個人は会社に所属し、その成果を通して社会へ貢献する。
その仕組みは合理的であり、多くの豊かさを生み出した。
しかし、その反面、一人の国民として社会に何を返しているのかを考える機会は少なくなったようにも感じる。
会社へ尽くすことと、社会へ尽くすことは、本来一致しているはずである。
けれども、それが一致していることを実感できる人はどれほどいるのだろう。
私はここで、働く目的について改めて考えた。
もし働くことが収入を得ることだけを意味するのであれば、できるだけ多くのお金を得ることが目的になる。
節税を考え、資産を増やし、より豊かな生活を目指すことは自然な流れである。
それを否定するつもりはない。
しかし、それだけが働く意味なのだろうか。
私はそうは思わない。
働くことによって誰かの役に立つ。
社会が少し豊かになる。
その結果として利益が生まれ、その一部を社会へ返す。
私は、その流れにこそ意味があるのではないかと思っている。
もちろん、これは理想論かもしれない。
人は誰でも自分や家族の生活を優先する。
だからこそ、社会に貢献しようという気持ちは、義務だけでは長く続かない。
では、人は何によって社会へ貢献しようと思うのだろう。
お金だろうか、法律だろうか、評価だろうか。
私は、そのどれだけでもないような気がしている。
人は、自分の行いが誰かの役に立ったと感じたとき、初めてその行為に誇りを持つのではないだろうか。
そして、その誇りは、自分一人で決めるものではない。
社会の中で育まれ、人から認められることで、少しずつ形になっていくものなのかもしれない。
そう考えたとき、私は新しい問いにたどり着いた。
社会は、人々のどのような行いを誇りあるものとして評価するべきなのだろうか。
私は、その問いについて考えてみたいと思う。

第六章 社会は何を名誉とするべきか

私はここまで、税について考えてきた。
しかし、振り返ってみると、考えていたのは税そのものではなかった。
税という制度を通して、人は何によって社会へ貢献しようと思うのかを考えていたのである。
社会には様々な評価がある。
学問で評価される人がいる。
芸術で評価される人がいる。
スポーツで評価される人がいる。
企業を経営し、多くの人を雇用することで評価される人もいる。
どれも社会に必要な存在であり、一つの価値だけで社会は成り立たない。
私も、そのことを否定するつもりはない。
一方で、社会にはもう一つの評価があってもよいのではないかと思う。
それは、「どれだけ社会へ返したか」という評価である。
ここで言う「返した」とは、お金だけを意味しているわけではない。
時間を使うこともある。
知識を伝えることもある。
文化を守ることもある。
人を育てることもある。
そして、その一つの形として納税がある。
私は、高額納税者が偉いと言いたいわけではない。
税額だけで人を評価する社会は、決して健全ではないと思う。
もし税額だけが評価の基準になるなら、人は数字だけを追い求めるようになるだろう。
それでは、お金そのものが目的になってしまう。
私が考えているのは、その逆である。
社会へ貢献した結果として、多くの納税をした人がいる。
その人は、多くの利益を得たから尊敬されるのではない。
社会へ多く返したという事実に、人々が価値を見いだすのである。
そのような社会であれば、納税という行為の意味も少し変わるのではないだろうか。
現在、「高額納税者」という言葉を耳にする機会は少ない。
かつては高額納税者が公表される制度もあったが、今ではそのような制度はなくなった。
私は、その制度を復活させるべきだと言いたいわけではない。
ただ、社会が「何を評価するのか」という価値観は、時代とともに変わってきたのではないかと思う。
今は、どれだけ資産を持っているか。
どれだけ高価な物を所有しているか。
どれだけ成功しているように見えるか。
そうしたことが注目されやすい時代である。
もちろん、それも一つの価値観である。
しかし、その成功が社会へ返されることなく、自分だけの満足で終わるなら、私はどこか物足りなさを感じる。
働くことの目的は、豊かになることだけなのだろうか。
利益を得ることだけなのだろうか。
私は、その先があるように思う。
社会の中で活動し、社会から多くを受け取り、その一部を社会へ返していく。
その循環があって初めて、一人の人間として社会に参加していると言えるのではないだろうか。
だから私は、納税を「負担」としてだけ見ることに違和感を覚える。
もちろん、生活が苦しい人もいる。
税金を払いたくても払えない人もいる。
だからこそ、人の価値を税額だけで測ることはできない。
しかし一方で、社会へ多く返そうとする姿勢そのものは、もっと評価されてもよいのではないかと思う。
もし社会が、「社会へ返すこと」を名誉ある行為として考えるようになれば、人は利益を得ることだけを目標に働くのではなく、その利益をどのように社会へ返していくかまで考えるようになるのではないだろうか。

ここで私が考えている「名誉」とは、お金で買える名声ではない。
名誉とは、人々が自然に尊敬したいと思う人格や行いのことである。
勲章や肩書きを持っているから名誉なのではない。
多くの人が「自分もあのように生きたい」と思える生き方に対して、人々が自然に抱く敬意である。
その敬意は、お金で命令して得られるものではない。
法律で与えられるものでもない。
人々が長い時間をかけて育てる価値観の中から生まれるものだと思う。

だが、そのような社会が実現するとは言わない。
それが正しいとも断言しない。
ただ、そのような価値観を持つ社会は、今よりも少しだけ、人と社会とのつながりを感じられる社会になるのではないか。
そんなことを考えている。

第七章 今日までの思索

この文章は、一つの答えを書くために始めたものではない。
コンビニでアイスクリームを買ったことをきっかけに、「税とは何だろう」という疑問が生まれ、その問いを追いかけてきた記録である。
考え始めた頃の私は、消費税について疑問を持っていた。
イートインとテイクアウトで税率が異なることに違和感を覚えた。
価格カルテルの報道を見て、市場価格とは何かを考えた。
そこから価格とは何かを考え、税とは何かを考え、納税とは何かを考えるようになった。
そして、最後に残った問いは、税そのものではなかった。
人は、何によって社会へ貢献しようと思うのだろうか、という問いだった。
私は、この問いにまだ答えを持っていない。
しかし、一つだけ思うことがある。
社会は法律だけでは成り立たない。
経済だけでも成り立たない。
制度を支えているのは、その社会に生きる人々の価値観である。
何を立派だと思うのか。
何を誇りだと思うのか。
何を尊敬したいと思うのか。
そうした価値観が積み重なって、社会の空気をつくっていく。
だから私は、税について考えていたつもりが、いつの間にか社会の価値観について考えていた。
もし社会が、お金を持つことだけを成功と考えるなら、人はお金を持つことを目指す。
もし社会が、有名になることだけを成功と考えるなら、人は有名になることを目指す。
では、社会が「社会へ返すこと」を尊い行いだと考えるようになったらどうだろう。
人は、その価値観に影響を受けるのではないだろうか。
もちろん、それだけで社会が変わるとは思わない。
制度も必要である、経済も必要である、教育も必要である。
しかし、それらの制度を支えているのも、結局は人の考え方である。
だから私は、制度そのものよりも、その制度が人にどのような人格を育てるのかに興味がある。
税制の是非を論じたいわけではない。
消費税を廃止すべきだと言いたいわけでもない。
高額納税者を特別扱いすべきだと言いたいわけでもない。
私が考えたいのは、もっと根本的なことである。
社会は、人のどのような行いを尊敬するべきなのだろうか。
そして、その価値観は、人々にどのような生き方を促すのだろうか。
私は、名誉とは勲章や肩書きではないと思っている。
名誉とは、多くの人が「自分もそのように生きたい」と思うような行いに対して、自然に抱く敬意である。
それは、お金で買うことはできない。
法律で与えることもできない。
人々が長い時間をかけて育ててきた価値観の中から生まれるものだと思う。
だからこそ、私は社会が何を名誉とするのかに興味がある。
その答えは、一つではないだろう。
時代によって変わるかもしれない。
国によっても違うだろう。
私自身も、この先考え方が変わるかもしれない。
それでも、この問いは考え続ける価値があると思っている。
この文章は、その結論ではない。
今日まで考えたことを整理した、一つの思索の記録である。
そして、この文章を書き終えた今、私の中には新しい問いが残っている。
もし社会が人の価値観を育てるのであれば、その価値観は誰によって育まれ、どのように次の世代へ受け継がれていくのだろうか。
その問いについては、また改めて考えてみたいと思う。

味覚の変化: ごっつラーメンの再評価

秋葉原のごっつに久しぶりに再訪

麺量は控えめに並280gとした。
また、あぶらの量は多めとした。
金額は900円
結果的にはとても美味しかった。

 

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過去の印象では味がしないのに塩分多めで麺量も多めで食べたあとに気持ち悪くなるような感覚があり、人生で再訪する事はないだろうと思っていた。
しかし、久しぶりに食べると少し様子が違っていた。

まず麺の量だが、ちょうど良い量だった。
これよりも多いと苦行になるがかと言って少なく物足りないという事もない。
腹八分目と言ったところか。
初めは少し硬めのボキボキ系かと思ったが、そうではない。かと言って柔らかい訳でもなく、ストレートでもない、あぶらが絡む少しちぢれた麺だった。

具はメンマ、ネギ、もやし、チャーシューと写真通り。
チャーシューは薄いが、二郎系の様な柔らかくとろみを感じる豚の脂の甘みを感じる美味しさがあった。
メンマも甘く、食べ進めていくうちにコッテリしてくる口の中を中和してくれた。

ネギ、もやしも同様で口の中をサッパリとリセットしてくれ、かつ、水分が醤油のしょっぱさや、強めの塩分をマイルドにしてくれており、それを期待して初めに食べずに正解だった。
また、あぶらがもやしと合わさる事で、豚の旨みが強調されており、相性が抜群である。

最後にスープだが、初めは正直かなりしょっぱさがあり、店員さんから味が濃い場合は割りスープがあるとアナウンスがあったがすぐにでも欲しくなるほどしょっぱかったのだが、徐々に角がとれてマイルドになっていくのがわかる。

麺とスープが分離せず、一緒に味が楽しめており、調和が取れている。

食べ終わったあとにスープを飲んでいると口の中でふと、知っている感触を感じた。
豚骨スープを飲んでいたのだが、知っている感触はそれではなく、崩した茶碗蒸しのような感触だった。
崩したあぶらのトロトロの舌触りに豚の甘み、それから茶碗蒸しのような出汁が後から奥に感じるため、前のイメージと違い、味の深み、表面的な醤油味としての層と、その次に出汁の旨みと、あぶらの旨み、それらの層が重なりあって深みが出ていた事に驚いた。

出汁も当然、茶碗蒸しの様な和風の出汁だけではなく、豚骨系も含まれていると思うので味だけでなく旨みについてもバランス良く調和されていた。

正直、ごっつがここまで高度で美味しかったとは思わず驚きである。

限定や二郎もどきに隠れていた気がするが、ある意味、ノーマルの美味しさがあるからこその遊び、余裕があって限定や二郎もどきがあったのだとも思う。

評価
★★★⭐︎⭐︎

とは言え、900円という金額やあぶらより表面的な味を楽しみたい派なのでやはり同じ金額なら家系に軍配が上がるか。

もう少し、透明感のある、ススルがよく使う言葉を借りていうならば醤油のキレがあっても良さそうだ。
なんとなく、しょっぱいだけで醤油味についてはピンぼけを感じた。

なぜ私は牛丼を料理と感じ、油そばを商品と感じるのか

はじめに

最近、油そば専門店が増えている。
駅前や繁華街を歩けば、「油組」「油堂」「油党」といった似た名前の店を見かけることも珍しくない。
実際に食べてみると美味しい。
味も安定している。価格も手頃で、量も多い。
それにもかかわらず、私はどこか違和感を覚えた。
同じチェーン店であっても、牛丼には「料理」を感じる。
しかし、セントラルキッチン方式の油そばやラーメンには、どうしても「商品」を感じてしまう。
もちろんこれは優劣の話ではない。
今回は、この違和感について、公平な観察者として考えてみたい。
私は何に違和感を覚えているのか最初は自分でも分からなかった。
味が悪いわけではない。価格が高いわけでもない。
むしろ効率的で便利な仕組みだと思う。
しかし、店舗で行われている工程を見ると、麺を茹でる。タレを入れる。盛り付ける。
そのような作業が中心に見える。
もちろん工場では多くの人が調理や開発に関わっているのだろう。
だが客として見えるのは「調理」よりも「組み立て」である。
一方で牛丼はどうだろう。
ご飯を盛り、肉を乗せ、タレをかける。工程は単純である。
しかし私はそこに料理を感じる。

第二章 料理とは何だろうか

辞書的に考えれば、料理とは食材を加工して食べられる状態にすることである。
その定義ならば、コンビニ弁当も料理である。
冷凍食品も料理である。
レトルトカレーも料理である。
ポテトチップスですら料理と言えるかもしれない。
実際、それらは人の手によって加工されている。
しかし私は、それらを食べた時に「料理をいただいた」という感覚にならない。
これはなぜだろう。

第三章 アメリカ開拓時代のビーンズ料理

私は昔のビーンズ料理を思い出した。
開拓時代の人々は、豆を煮て塩を加えただけのような現代の感覚で言えば非常に質素な料理である。
おそらく当時の人々にとっては、栄養補給や空腹を満たすための食事だっただろう。
しかし私はそれをエサだとは思わない。
むしろ立派な料理だと思う。
なぜだろう。

第四章 味や手間では説明できない

ビーンズ料理は決して豪華ではない。
調理工程も複雑ではない。
味付けも現代の料理ほど豊かではない。
それでも私は料理だと感じる。
つまり私が見ているのは、味の濃さではない。手間の量でもない。
価格でもない。高級さでもない。では何なのか。
私は料理の中に人間の営みを見ている.
おそらく私は、料理そのものではなく、その背景を見ている。
ビーンズ料理には、その土地の気候がある。
農業がある。家族がある。暮らしがある。
何世代にもわたって受け継がれた知恵がある。
私はそのような人間の営みを感じ取っているのではないか。
だから質素な豆料理でも料理に見える。
料理そのものではなく、その背後にある人間の営みを見ていたのかもしれない。

第五章 アダム・スミスの分業

ここでアダム・スミスを思い出す。
スミスは『国富論』の中で分業の価値を高く評価した。
分業によって生産性は向上し、多くの人々が以前より豊かな生活を送れるようになる。
セントラルキッチンも同じである。
大量生産によって、安く、早く、安定した品質の食事を提供できる。
これは間違いなく社会の進歩である。
公平な観察者として見れば、その価値を否定することはできない。
しかし見えなくなったものもある一方で、分業によって私たちの目から見えなくなったものもある。
誰が考えたのか。誰が工夫したのか。どのような試行錯誤があったのか。
その姿は店舗から遠ざかっている。
工場で行われていること自体は料理かもしれない。
しかし客から見ると、その営みが見えにくい。
私の違和感は、味ではなく、この見えなくなった部分に向けられているのかもしれない。
かつて料理人が行っていた判断。家庭で行われていた工夫。土地ごとの食文化。
そうしたものは、工業化の過程で私たちの目から遠ざかっていった。

第六章 バークならどう考えるだろうか

エドマンド・バークは、社会を単なる合理性の集まりとは考えなかった。
社会とは先人から受け継いだ知恵の蓄積だと考えた。
先人から受け継がれた知恵や慣習に価値を見出した。
もしバークがビーンズ料理を見たなら、そこに共同体の歴史を見るだろう。
家族の暮らしを見るだろう。人々が積み重ねてきた経験を見るだろう。
暮らしの歴史がある。
バークなら、その価値を単なる栄養価では測らなかっただろう。

おわりに

私は今でも答えを持っていない。
セントラルキッチンの食品を料理ではないと言うつもりもない。
それらは多くの人々を支えている。実際、私自身も利用する。
しかし、開拓時代の豆料理に感じるものと、工業化された食品に感じるものは違う。
その違いは味ではない。価格でもない。効率でもない。
私は料理の中に、人間の生活や知恵の痕跡を探しているのかもしれない。
私が料理の中に求めているのは、「命をいただく人間の営み」なのかもしれない。
もしそうなら、問いは「これは料理か、商品か」ではない。
「私たちは料理に何を求めているのだろうか」なのだろう。

木製ケースの時計の魅力と性能

初めての木製ケースの時計

 今回私は自分にとって珍しいものと出会い買い物をした。

それはケースが木でできている時計だ。

確かに金属アレルギーの政治家が竹でできた腕時計をしているのをネットかテレビで見て知っていたので金属ではない時計が存在していることは知っていたが今回、運良く入手する事ができたので、どのような所感を抱いた記録に残しておこうと思う。

後で何年後かに今回の時計をつけながらこの記事を見返しに来て違った印象になっていたら面白いなと思う。

 

この時計については文字で残せない情報等は下記の動画にて残している

動画リンクの下に記事が続いている


www.youtube.com

 

目次

 

 

時計のブランドについて

 今回の時計のブランドは初めて聞いた名前なのだが、BOBOBIRDと言うブランドらしい。

中国深圳発で始まったブランドで木を使った製品のため環境への配慮を意識しているブランドであるとのこと。

比較的低価格で個性的なデザインを楽しめるのが特徴で、2017年頃から海外市場でも販売を拡大したようである。

そろそろ海外展開を始めて10年という事は新興ではあるもののブランドとしてはある程度確立されていると言えそうだ。

 

ホームページを見ると過去に吉幾三モデルを発売しており、人選が非常に興味深い。

ホームページのリンクを掲載したいところだが、勝手に貼っていいのか不明なので

今回は貼らないでおくことにした。

ここで言っているホームページとは公式正規代理店のホームページになる。

代わりに商品ページを下に掲載しておく。

 

 

 

外観について

本商品の外観は正直、パッと見プラスチックぽい見た目だと感じる。

なぜならとてもカラフルだからだ。

しかし、同時に積み木のような印象も抱いた。

そしてその積み木のような印象が、ステンレス製の時計と違って反射や重量感等を感じさせず、これ見よがしな雰囲気を出さない所が親近感があり、何となく北欧のような印象をうける。

 

性能について

購入した時計はクオーツ時計のため、恐らく蓋を開けて見たわけではないがミヨタムーブメントが内蔵されているとの情報をネットで見た.

だが、せっかくなので開けてケースの中身を確認してみたところ、ムーブメントはS.EPSONのVX43Eが搭載されていた。

 

ケースの裏蓋(かなりネジが小さい)

 

ムーブメントはS.EPSONのVX43Eだった

 

時間の誤差は全く感じることなくスムーズに時を刻んでくれている。

ケース裏蓋にはやはり防水用のパッキンがついておらず、RESISTの記載も見当たらないため、日常生活防水も備わっていないと思って手を洗う際にも外すなどして取り扱いをおこなうのが無難そうである。

 

視認性について

時計の針は細めで上品な印象だが、視認性はよく、蓄光についてもしっかりと反応しているため夜間でも見やすい。

日にち表示についても一般的な窓と同じ大きさのため、本製品だけが特別見づらいとか逆に見やすいとかもない。いたってシンプルで文字盤の調和はとれていると思う。

曜日の表示については初めて見るタイプで、恐らく日にちと同じ円盤が回って開いてるる窓に赤色を表示するタイプかと思うが、よくできていると感じる。

パタパタ日めくりカレンダーのような機構ではない分簡易的に思うし、全ての曜日を文字盤に載せて色表示する方法は文字盤がごちゃごちゃして見にくいような気もするが、

曜日表示が何となくアクセントになっており、しっかりとデザインとしての主張を感じる。

 

重量感について

 腕時計は基本、一日中つけっぱなしになると思うので、重いと腕が疲れたり、気になったり、大きいと邪魔になって外したりなどあると思うが、本製品はかなり軽く身につけていることを忘れそうである。

しかし、ケース径42mmは良くも悪くも少し存在感がある。

この時計をつけたまま、事務作業や肉体労働は当然邪魔になると思う。

AppleWatchのベルトに比べても、留め金具の部分が、金具、その上にベルトと重なっており、厚みが増している。

作業中は外した方が良さそうだ。

 

アクセサリーとして

 アクセサリーとしては存在感がある大きさで、かつ、珍しさがワンポイントになりそうだなと思う。

また、革小物などが茶系の場合、それらが、木材の茶色との調和や、革と木材という自然な素材を使用している統一感が出てまとまりがよさそうである。

 

 

総評

 時計として、木材であるからこその軽量さ快適性があり、ケース径42mmで視認性もよく、エプソン製のクオーツ時計のため、時間が極端に狂う事もなく時計としての性能は充分にあり、アクセサリーとしても素材のもつ柔らかい雰囲気や、素材の色、文字盤のデザインがとてもお洒落で、男性時計にありがちな武骨さが弱くかなり中性的な印象が現代のスーツではない、普段着にとても合いそうだし、もちろん、スーツにも合わせやすいとは思うので、堅いお客さんの相手ではない時であれば、あるいは服飾関係等であれば身に付けやすいのではないかと思った。

革小物愛好家の新たな挑戦

折り畳み財布の記録(第二弾) 

 つい先日、5月4日に財布の購入を記録したばかりだが、また折り畳み財布を購入した。しかし、前回は栃木レザー、今回新しく買った財布はプエブロレザーになる。

初めてのプエブロレザーを使用した革小物だが、かなり育てるのが楽しみなレザーだったので記録を残すことにした。

 

目次

 

 

プエブロレザーとは

 まず、プエブロレザーとはチャッピーいわく、

「イタリアのバダラッシィ・カルロ社系で有名です。
革の“銀面(表面)”が残っています。

つまり本来は普通の表革。

そこにヤスリ加工のような処理をして、あえて乾いた質感を出しています。

最初は和紙みたいなマット感があります。

なので内部はしっかりしたフルグレインレザーです。

最初の質感は乾いた土、和紙、古い木材で数ヶ月後には強い艶、深い色、しっとり感

に化けます。」とのこと。

 

今回購入した財布について

購入したのは「Sollman」のブラウンカラーで定価は9,960円だが、基本的にはセール対象商品のようで編集中の現在では30%の6,960円(税込)で販売をしていた。

 

 

 

 

財布の細部について

 まず、触ってみた感想は表面が段ボールのような手触りで水分がとられそうであまり良いとは思えない触感。

しかし、チャッピーの言う通り、和紙や古い木材の触感に近くプエブロレザーであるという納得感がある。

 

また、「数ヶ月後には強い艶、深い色、しっとり感」が出るとも言われたので期待値が上がり育てる楽しみも同時にこみあげてくる。

 

表面は段ボールのような手触りだが、中身は違うレザーを使用しており、そちらの手触りは決して悪くない。生地の薄さからなんとなくビニールのような雰囲気を醸し出しているが柔らかく使いやすいレザーが使われており、革を馴染ませなくとも直ぐに使えるのは万人が手に取る事を考えると良い素材選びだと感じる。

 

カード類のポケットは14か所あり、かなり大容量であると言える。

かと言ってカード類14枚、お札数枚、硬貨ジャラジャラでおしりのポケットに入るのかと言えば入るがポケットがかなりパンパンになる事は想像に難くない。

 

小銭入れについてはつい最近購入した、TAMIWA製の折り畳み財布と同じ仕様になっており、ボタンで留めるようになっており、ボタンを開けるとガバっと小銭が見れるようになっている。

 

 

y812inc.hatenablog.com

 

 

これはTAMIWA製の財布しかり、同じOEM業者に発注しているのか、それとも使いやすさを重視したデザインだからなのか、はたまた、そうじゃないと売れないのか。

 

現在、使用している小銭入れがこのタイプで欲しいお金を探しやすく、100均で購入したにも関わらずかれこれ10年は使用できておりファスナーよりもスナップボタンの方が耐用年数が高い事を体験しているため、このデザインは小銭をよく使う私のニーズは満たしており、大変助かります。

 

本財布を使用してエイジングの変化が見られたら改めて記録に残そうと思う。

 

まとめ

文字だけだと難しい部分もあるため本製品についても動画で短く雰囲気をまとめています。

 


www.youtube.com

 

 

商品が気になり検索した人の目に留まり購入する際の一助になればと思いこちらのブログにも書き残しています。

 

参考になりましたら幸いです。

ご覧いただきありがとうございました。

 

経済格差と食文化:庶民の食事費の現状

庶民の味方

 

 今回は箱根そばの最近のキャンペーンに助けられている話を残そうと思う。

 

最近の外食事情はどこのお店も値上げの影響により物価が高く、1000円前後の食事料金が普通になってきている。

欧米諸国よりは安いというが、賃金が高いというからそれでも良いと思うが日本では賃金の上昇率はそこまで高くなく、食費だけが高騰している。

 

過去、自分のお昼ご飯の定番はマクドナルドのハンバーガー3つを300円で食べていたが、それでも足りないと思いながら満足感はあった。

しかし今、同じことをしようとすると、ハンバーガーは190円で3つで570円となる。

他のお店で570円で食べれるお店があるかと言われると全く思いつかないが、570円も払うならもっと美味しくて満足度の高い食事をしたいという衝動に駆られていた。

 

そこで発見したのが、箱根そばだ。

むかしからそばは安い代表的な外食の選択肢だったかと思うが、ハンバーガー3つよりも安い400円でかけそばが食べれるのだから行かない手はない。

あっさりとしていてハンバーガーのようなジャンキーさはないが、腹持ちの点では同じかまたはハンバーガーよりも良いのではと感じる。

それだけの量が食べれるのが箱根そばの良いところだ。

 

それだけでも大変ふところ的に助かっているが、最近、手揚げかき揚げが30周年を迎えたとのことでかき揚げ引換券を配布していた。

なんと無料でかき揚げを付けてくれるらしい。

 

かき揚げの引換券

このおかげで400円でかき揚げそばが食べられるのだから行くしかない。

行かない手はない。

しっかり使い切って箱根そばさんにお世話になるしかない。

ということでもう自分の口の中は常に箱根そばのかき揚げそばの口になっている。

 

箱根そばのかけそば(かき揚げ付き)

 

このかき揚げの大きさがかなり大きくどんぶりの半分が埋まってしまうし、分厚くて25mmほどの厚みがあるのではないかと感じる。

 

衣がサクサクで野菜がしっとりしており玉ねぎや人参などはめんつゆを吸って甘くなっておりたまらない。

 

立ち食いそば屋として富士そばもあるがあちらはかけそば1杯430円になる。

箱根そばの企業努力に大変感謝しております。

 

更にありがたい事に私の生活圏内には日高屋や吉野家並みに存在しておりいつでも行きたい時に存在してくれているのが大変ありがたい。

 

箱根そばにはいつも大変お世話になっているのでたまにはかけそば以外のそばも食べているが、温玉めかぶそばも美味しい。

めかぶのネバネバトロトロ成分が温玉と一緒に麺に絡んですすった際にめかぶの旨みがめんつゆと一緒に口の中に広がり直ぐにもう一口に手が伸びてしまう。

金額も650円とかけそばにプラス250円で食べれるしハンバーガー3つよりも確かに高いがその分満足度も高く、食べた後の後悔も全くない。

 

願わくばもうしばらく同じ価格でかけそばを食べ続けられる事を祈りたい。

が、どうせ祈るのなら、そもそもの収入が私以外も含めて全国的に引きあがる事を祈りたい。

 

しかし、日高屋はそばと違って原価の高い小麦を使ってかつチャーシューや海苔がついて魚介系の出汁が染み渡るあの中華そばをどうして箱根そばのかけそばと20円しか違わない420円で提供できているのか。

しかも箱根そばと違って基本、家族連れでも入れるような広さがあって立ち食いではなくテーブル席でゆったりとできる空間であるはずなのに。

家系ラーメンの違いと魅力

吉村家に初体験

下記の内容は実食後、数分以内にカフェに移動してメモをした内容をそのまま掲載しております。

 

内容は個人差があるとは思いますが筆者の感想をそのまま記述しております。

 

吉村家にて醤油ラーメンを実食

 

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醤油のカエシが効いており、豚骨の甘みは控えめで鶏ガラのスープに鶏油がバランスよく混ざっており、麺に絡んでいた。

麺は長さが短く、麺に絡みやすい家系用の麺であると言えると思う。
一般的な家系に比べて少し平打ち気味で麺の硬さを普通にしたところ、芯は残っていないがソフト麺に比べて当然少しコシがあり食べやすい。

色からわかる様に、豚骨は乳化してはいないが、想像よりかは醤油のインパクトは薄くマイルドだった。

同時に白米を注文したが、他の家系の様にキュウリの漬け物ではなく、キャベツなどの漬け物が付いてきて、口の中に溜まっていく脂が都度リセットされていた。

白米単体でも粒が立って美味しいが、漬物との相性も良かった。
海苔を巻いてご飯を食べてもしっかり合う。海苔が噂通り少し厚みがあり、スープを食べれる様になっており、海苔に染みたスープの豚骨の糖がご飯の糖と合わさり、マイルドかつ美味しさが2倍になる感じ。

スープをご飯にかけて食べるのもバッチリ合う。海苔の香りこそないものの、スープの味がダイレクトにご飯と混ざり合い、完璧なおじやになっていた。

卓上調味料は、お酢、胡椒、ニンニク、刻み生姜、すりおろし生姜、フライドガーリック、辛味噌。

金額はラーメン並 890円 白米160円
4時に並んで5時27分に着丼。
その時間、約1時間27分(87分)
80分待ちの看板が立っており誤差7分。
恐らくロット単位での時間調整。
都度、空いた席を入れ替えてるわけではなさそうで、列が一気に減って、少し待ってまた一気に減ってと2回あって店内に入る事ができた。
本日のサービスでレモンが無料で丸々一個持ち帰りが可能だったが自分達は取っていない。

評価
★★★★⭐︎

壱角家や町田商店が家系と違うと言われる理由は、吉村家は鶏ガラの醤油ラーメンがベースで豚骨スープが控えめな感じだったが、前者のラーメンは豚骨がベースとなっており、マイルドで食べやすい事が両者違うと言われる所以なのかと推測。

前者は食べやすいし美味しいが味の優劣ではなく、系統の違いがあった。
並んで食べる甲斐はある、いい機会だった。しかし、クセになるかと言われると疑問符がつくか。